土地評価のブログ

不動産鑑定士の日々

ペリー来航

中野市(2020)から。

江戸末期、ペリー来航がありました。乗組員たち約500名が27艘のボートに分乗して岸に着き水兵と陸戦隊員が上陸して整列しました。会議はオランダ語で行われ、日本側の通訳として前回ブログで紹介した森山栄之助が活躍しました。森山の英会話は会議に使うレベルに達していなかったようですが、オランダ人が驚嘆するほどの熟達したオランダ語を駆使していました。


文献(海の祭礼)にアメリカ側の贈物の記述があります。
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「マセドニアン号」艦長アボット大佐が指揮をとり、九ツ(正午)ごろからおびただしい贈物がボートで陸揚げされ、応接所のかたわらに新築された建物の中に陳列された。
将軍への贈呈品は、四分の一縮尺の模型蒸気機関車とレール、電信機、銅板張り救命ボート、農機具、銃器九、ピストルニ十、軍刀十八、望遠鏡ほか書籍、地図、酒類などであった。御台所には、絹ドレス、化粧箱、香水。
老中阿部正弘(略)には救命ボート、ライフル銃、連発拳銃、時計、酒類などが、また応接掛の林大学頭(略)にも、老中に準じた贈物がおくられた。アメリカ側は、電線を一マイル張って、電信機で通信の実験をしてみせ、また、客車と炭水車を連結させた模型機関車に石炭をたき、円状のレールの上を走らせてみせたりした。
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昔、修行時代(35年前頃)師匠から”ペリー来航時にはお相撲さんが活躍した。巨体で威圧しようとしたのであろう”と言われたことが頭の隅に残っていました。


下記サイトによると下記記述(2回目のペリー来航時)があります。
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嘉永7年(1854)1月に再び来航したとき、(略)力士たちの最初の仕事は幕府からの贈り物米200俵(5斗俵)を船に積み込む作業であった。(略)力士たちはそれを2俵3俵と担いで運んだ。幕内の巨人力士白真弓は一度に8俵を運んでアメリカ人の度肝を抜いたと伝わる。それが終わると仮御殿の幕内で土俵入と稽古相撲を見せた。
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ちなみに江戸時代は1俵=約80kg(ただし、地域毎にばらばら)、明治時代60kg(規格統一)だったようです。(百科事典ウィキペディア)


それにしても米俵を3俵どうやって担いだのでしょうか?
すごいものです。
<引用・参考文献>
吉村昭「海の祭礼」pp.334,348,,文春文庫
<引用参考サイト>
相撲デジタル研究所(D1 黒船来航と相撲)
https://www.arc.ritsumei.ac.jp/lib/vm/sumo/2020/12/post-41.html

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