「信濃の国」
長野市戸隠(2017.7.5撮影)。当時、そば畑の広がりに思わず車を止めて。
前のブログで同じ写真を出しているかもしれません。
前回の続き~
久米路橋は長野県歌「信濃の国」の中(四番)で「心して行け久米路橋(くめじばし)」と歌われています。
信濃の国
作詞:浅井洌(きよし)
作曲:北村季晴(すえはる)
作詞した浅井は歌詞の一番~六番で下記について端的に述べています。(「信州学ダイジェスト」出典)
一番・二番:信州の風土
三番:19世紀末の信州における生業(なりわい)
四番:信州の名所旧跡
五番:信濃の国の偉人
六番:明治の新交通体系であった鉄道交通
「信濃の国」は現在、信州大学教育学部附属長野小学校の校歌になっています。そういえば昔、子供が同小の運動会で歌っていました。
先日、同文献(下記引用)を読んでいたら県歌が世に出たのは明治時代であることを知って驚きました。もう歌い継がれて126年、明治・大正・昭和・平成・令和と。
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「東京をはじめとする県人会の総会では、必ずというように「信濃の国」がうたわれている。昭和恐慌期から第二次世界大戦下を通じて、長野県は全国で最大の満州移民を送り出した。その際移民船の中でうたわれた望郷の歌が、「信濃の国」であった。いずれにしても「信濃の国」は、明治・大正・昭和の三代にわたって一〇〇年間もうたい継がれてきた。昭和九年(一九三四)長野市大峰山歌か丘に「信濃の国」の歌碑が建設された。さらに昭和四三年(一九六八)明治百年記念事業の一環として、「信濃の国」が県歌に制定された。
昭和四三年度の国民体育大会、平成一〇年の冬季オリンピックの開催に当たり「信濃の国」を演奏したところ、国内のみならず国際的にも大変好評であった。県歌「信濃の国」が広く県民に愛唱され、また県外人や外国人に大きな感銘を与えてきたのは、北村季晴の名曲によるところが多大である。
明治三二年依田弁之助の作曲による「信濃の国」は余り普及しなかったのに対し、三三年北村によって新たに作曲がなされてから爆発的に普及したのは、その旋律が軽快かつ優雅で、信州人の心を魅了したからである。北村季晴は明治三二年11月に長野県師範学校に転任し、三四年二月に退職して上京し、作曲活動に専念した。長野市に滞在したのはわずか一年六か月に過ぎないが、その間浅井洌の依頼を受けて「信濃の国」の作曲をしたことは、誠に幸いなことであった。北村は明治三五年に「ワシントン」(略)、明治四一年に「汽車の旅」(略)。また『中等音楽教科書』全四巻を編纂している。大正三年(一九一四)宝塚少女歌劇の第一回公演でうたわれた歌劇「ドンブランコ」(略)は、北村季晴の作曲であった。近代日本の作曲家として一流であった北村が作曲したことが、現在でも「信濃の国」が県民歌としてうたい継がれている最大の要因であるといえよう。」
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最初に作曲された歌は雅楽調で曲が古めかしかったため歌われなかったようです。
次に作曲した北村季晴は、初期の宝塚歌劇を担当していました。確かに曲風が軽快で優雅に感じます。
私の父(第二期満蒙開拓青少年義勇軍)も中国行きの船で歌ったことでしょう。今、生きていたら100歳に。
しばらくブログをお休みします。
<引用・参考文献>
市川健夫「信州学ダイジェスト-日本の屋根の風土学」pp.51-59
