土地評価のブログ

不動産鑑定士の日々

堂庭(善光寺)

飯山市菜の花公園から

現在、長野市で一番地価の高い場所は長野駅前付近ですが、戦前は善光寺周辺であったことが文献(長野市誌)に記述されています。
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大正十四年(一九二五)当時、各町の最高地価は大門町(だいもんちょう)・後町(ごちょう)・元善町(もとよしちょう)・横町(よこまち)・岩石町(がんせきちょう)の順だった。戦後は市内でいちばん地価の高いところは、昭和通り交差点付近(銀座)、石堂町、駅前とだんだん南へ移って来た。平成八年には、長野駅前(南千歳町)・石堂・権堂・岡田・後町などの順になっている。
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戦後、地価の一番高い所は善光寺から長野駅へと南に移ってきた経緯がありました。


大門町は善光寺入口前、その南が後町、元善町は仁王門北側の仲見世通りを中心に両側(寺が建ち並ぶ地域)、横町は大門町の東側、岩石町は横町の北東側にあり、いずれも善光寺周辺にあります。


また、元善町(もとよしちょう)は下記文献(長野遺跡群)によると昔、善光寺本堂があった所だそうです。
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現在の善光寺本堂は、宝永4年(1707)に現在地に造営されたものであるが、それ以前の本堂は堂庭と称される仁王門より北側の平坦部(現仲見世)に位置したとされる。この堂庭の平坦部も人為的な造成により築かれた可能性が高く、善光寺の発展とともに善光寺および門前町の地形が大きく変化していったことが想像される
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1707年以前の善光寺は、現在よりやや小さい規模であったようです。


元善町の旧名は「堂庭」だった下記記述(長野復刻)が違う文献(長野復刻昭和47年度)にありました。
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明治七年堂庭を改め元善町となる。明治四年以前は敷石の両側に床店(略)とて奥行一二間程の店が並びその後は衆徒寺院迄の間は一面の草原だった由。
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前に善光寺本堂があったから「元善」という字を町名に使ったのかもしれないと思いました。
<引用・参考文献>
「長野市誌第八巻」p.172,平成9年
長野市教育委員会「長野遺跡群 元善町遺跡 善光寺門前町跡 (2)」p.6,長野市の埋蔵文化財第121集,2008年3月
依田康資「長野市の住居表示について」長野市郷土史研究会機関誌「長野復刻昭和47年度」p.70,昭和47年復刻

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