土地評価のブログ

不動産鑑定士の日々

乗合馬車2

生坂(いくさか)村(2007.5)から。昔の写真ですが気に入っています。

たまに読む文献(信州学大全)に乗合馬車の歴史(【】引用)が書かれていました。


【自動車がほとんどなかった明治時代の道路交通は、馬車と人力車に代表された。当時の道路改修は、すべて馬車が通行しうる幅員に拡大し、また勾配や屈曲を緩和することであった。(略)また明治6年には松本・塩尻間に乗合馬車が運行された。(略)
 乗合馬車は明治20年代から30年代にかけて急増していった。明治43年(1910)県下の乗合馬車は414台で、うち2疋(匹)立以上はわずか21台で、そのほとんどが1疋立であった。また人力車が2141台、荷馬車が5361台、大七(だいしち)車・大八車(大八車は人が背負う量の8倍つけられる。[略]大七車は人が背負う量の7倍[略])が10台、荷車が26810台、免税車が3820台あった。
 明治時代の交通大系は鉄道を核にしていたため、乗合馬車・荷馬車は鉄道輸送を補完する機関として発展していった。開設当時の鉄道駅は、馬車の日帰り行動圏を約10キロと想定して設置されていた。それほど鉄道と馬車との関係は密接であった。(略)
 明治15年(1882)長野県は、碓氷峠の新道はじめ、「七道開鑿(さく)事業」を提案し、主要幹線道路8万7760間の開盤を進めた。(略)このような幹線道路を除くと、道路は鉄道駅を中心に改修が進められた。開設当時の鉄道駅は、長野~豊野駅間10.8キロ。、長野~篠ノ井駅間9.3キロと馬車の日帰り行動圏を前提にして駅が設置されていた。乗合馬車、荷馬車はともに駅を起点にして運行されていたのである。】


大八車は人が背負う量の8倍つけられるから大八なんですね。大七車もあったようです。


鉄道駅は、馬車の日帰り行動圏を約10キロメートルと想定して設置されていた旨の記述に感心しました。


馬の行動範囲が意外と狭かったことは、以前のブログで記載していますのでご覧ください。
2022/4/24馬沓(うまぐつ)
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<引用・参考文献>

市川健夫「信州学大全」pp.459-460,466,信濃毎日新聞社,2004年

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