土地評価のブログ

不動産鑑定士の日々

長野県の地租改正

長野市中条御山里(2008.12)から。

今日のブログは専門的な古い話です。昔、興味のあった地租改正(田の地価)について調べたことがあり、その資料をまとめてみました。
文献(信濃第28巻)に明治時代初期に行われた地租改正で田の地価決定について詳細な説明がありました。


地租改正事業は、明治6(1873)年の地租改正法の公布から始まりました。長野県では明治8(1875)年から地租改正に着手し、収穫米から地価を算定する方法(収穫米方式)を採用しました。別に小作米方式はありましたが、採用している県は少なかったようです。
地価=[ 収穫米×米価-種肥代-(地租+村入費)]÷利子率
この中で政府は種肥代を15%、村入費1%と決めていましたから収穫米、米価、利子率の決定が課題となっていました。


当時の地租改正は地価の3%を金納する制度でしたが、作物の豊凶よりも米価騰落の影響が大きかったようで政府は税率を明治11年2.5%に減額しています。
地租改正は西郷隆盛が中心となって推し進めたとばかり思っていましたが、米価の決定など大久保利通が(注)中心的役割を果たしていました。ちなみに利通は漬物が大好物だったそうです。
(注)明治8年3月19日大蔵省乙第36号達、明治8年7月8日本局議定出張官心得書などの策定
(収穫米)


同文献(信濃第28巻)に実際の収穫量について記述(岡村文書「田畑坪様し石数」より算出)があります。
明治時代初期の反当たり実収穫米(長野県須坂市及び綿内地区)=1.2~1.3石=180~195kg程度ですが、1.5石(225kg)の地域もありました。1反=10アール。
下記サイト(長野県)によると令和4年長野県産米の10アール当たり収量は全国1位の608kg(全国平均536kg)ですから明治時代初期の収穫量は著しく少なかったことがわかります。


(利子率)
利子率は6~7分(%)の範囲で決められました。この範囲に定められた経緯は不明です。
明治時代初期(長野県北信及び東信地区)における利子率は6.1~7分(長野県北信及び東信地区,佐久地方平均6.6分,水内地方平均6.6分)
<引用・参考文献>
信濃史学会「信濃第28巻第2号」長野県の地租改正(一),丸山文雄執筆,pp.109-120,昭和51年2月1日
信濃史学会「信濃第28巻第3号」長野県の地租改正(二),丸山文雄執筆,P.231,昭和51年3月1日
長野市郷土史研究会機関誌「長野第2号」(地租改正裏話)高橋伝造執筆,p.16,昭和39年6月
<参考サイト>
長野県の稲作
https://www.pref.nagano.lg.jp/nogi/sangyo/nogyo/okome/toukei.html
国立国会図書館 中高生のための幕末・明治の日本の歴史事典
https://www.kodomo.go.jp/yareki/person/person_07.html
国税庁 地租改正と地券発行
https://www.nta.go.jp/

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