土地評価のブログ

不動産鑑定士の日々

古い地名9(条里制跡)

飯山市(2008.11)から。

昔、文献(佐久の開拓史)に条里制跡と思われる地名が残っているという記述に驚いたことがあります。それに「遺称(いしょう)」という言葉にも。
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「4 地名について
佐久に残っている口分田と条里的遺構関係の地名はつぎのようである。
①佐久市小宮山に残っている「地の眼」(じのめ、またはじのまなご)という地名は条里の測量をはじめる時の基点になった所をあらわす地名である。
②一丁坪・大坪・坪の内・柳の坪の如く、坪の遺称残っていること。坪の内とは田区の一方眼たる坪の中に入るべき田のことである。(略)
③反(たん)田・二反田・三反田・四反田・五反田・六反田・七反田・八反田・九反田・一丁田・一町田、町田のように田の面積をあらわす地名が存在していること。
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また、違う文献(川と人の営み)によれば千曲市にも「地の眼」「一丁田」の地名(下記引用)がみられます。
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屋代高校西の「地の眼」はいじってはならない重要な場所で、条里区画をする際の基準となった場所である。その西に「壱丁田」、その北に「壱丁田尻」があって、条里の西側の境界になっており、屋代高校敷地の「馬口」は発掘によって平安時代の水田が確認されている。「下壱丁田」「上壱丁田」はやはり森の条里南端にみられる。
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条里制は、唐(当時の中国)の均田制にならった土地区画管理制度で、奈良時代の班田収授法(701年)を契機に広まっています。


それと文献(佐久地方の地名と語源)に条里制の地名に関する記述がありました。
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縄手
条里制で区画された水田の畦
枡の下
条里制の一町歩を枡といいその下
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地名は諸説ありますが、古い地名であることは間違いなさそうです。
<引用・参考文献>
菊池清人「佐久の開拓史」p.188,昭和53年,千曲川文庫11
国土交通省千曲川河川事務所「千曲川と犀川 地名に見る 川と人の営み」p.52
市川武治「佐久地方の地名と語源」p.185,昭和63年
<参考サイト>
湯梨浜町役場 久見・中興寺の条里
https://www.yurihama.jp/town_history2/2hen/1syo/05020500.htm

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