土地評価のブログ

不動産鑑定士の日々

献上品(江戸時代)

長野市(2014.5)から

昔、郷土史研究会の文献をみていたら江戸時代の信州諸大名が将軍に献上した品に驚いたことがあります。


文献(括弧が引用)によると
「安政六年(1859)刊の『武鑑』(ぶかん)によって、信州諸大名の、献上・拝領の品を調べてみた。(略)図版2は参府(参勤交代で江戸に出た時)の献上品。「巻物」は軸に巻いた反物で、それが五反である。それに「銀馬代」として馬を献上する代わりに丁銀(ちょうぎん・一枚-四三匁の銀-約五万円)を献上する。(略)ただし、格式ある大名は、銀馬代でなく、金馬代(大判一枚=約五十万円)を献上した。前田候はもちろん金馬代である。」


将軍は毎年、諸大名から馬をもらっても困ったようです。


「八朔(はっさく)」は八月一日で、天正十八年に家康が江戸に入府した記念日である。当日は大名・旗本は白帷子(しろかたびら)を着て登城し、祝辞を述べた。年始と八朔には太刀と銀馬代を献上したとある。(略)かような太刀は始末に困るので、献残屋(けんざんや)という商人が払い下げを受け、翌年の献上の際に販売したという。(略)」


献残屋という職業があったようです。


「ところで、小布施は天領と松代領に二分されていたが、栗の林は天領分にあった。元和年間、家康の娘小松姫が松代藩主真田信之に嫁する際に、この栗林五十町歩を化粧料として与えた。よって、この林からの初物は献上に回されることになった。文化八年の献上栗は三千個であったという。(略)一茶の『七番日記』に、
拾れぬ栗の見事よ大きさよ
の句が載っているが、選りすぐりの栗は献上品として、庶民の手には入らなかった事情を詠んだ句と言われる。」


栗3,000個のうち、将軍の口に入ったのはいくつだったのでしょう。
小林一茶が詠んだ句の意味がわかりました。


なお、今回のテーマは旧ホームページのブログで紹介してました。
<引用・参考文献>
翠川渡「信州諸大名の献上品」pp.22-24(長野第246号)長野市郷土史研究会,平成18年

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