土地評価のブログ

不動産鑑定士の日々

川の産物と網地名

小川村から(2006.1.25)。また古い写真です。

上田市街地を通る堰(せぎ)に桝網用水(ますあみようすい・別名堀用水)があります。それに坂城町に網掛(あみかけ)や上平小網(うわだいらおあみ)の地名があります。
「網」という字のことが長年気になっていました。


文献を読んでいたら下記説明がありました。
「更埴地方の千曲川に生息する魚類の主なものをあげると、サケ・ウナギ・アユ・コイ・ウグイ・アブラハヤ・フナ・ドジョウ・ナマズなど一五科三七種に上るという(『更級埴科地方誌』自然編四九四)。これらのうち、サケは『延喜式』の巻二四には、調の副物の中に「鮭楚割(さけのすわやり・魚肉を細長くひきわったもの)・氷頭(ひず・頭部の軟骨)・背腸(せわた・腎臓のしおから)・鮭子(すじこ)が課されているし、太田庄(豊野牟礼あたり)では徳治二年(一三〇七)以後鮭九尺(隻の意で今日の匹にあたる)を地頭の島津久長に送ることになっていた。上小・更埴地区には、桝網(上田市堀)・小網(おがみ・坂城町上平分)・網掛(坂城町)など網地名が多く残り、多くのサケを捕獲したにちがいない。時代の下るにつれてサケの遡上数は減ってきたのであろうが、寛政七年(一七九五)になってもなお下真島(長野市)の惣助が千曲川での鮭猟を願い出している(『長野県史』近世史料七(二)九三六号。
ウグイ等の小魚をとる猟も古くからあったと思われるが、記録面では文化七年(一八一0)に上山田の河原で付場、嘉永三年(一八五〇)に千本柳村に付場壱ヵ所が知られる。」


現在、サケはとれなくなりましたが、ハヤのつけば漁(千曲川名物)は今でもおこなわれています。昔、ハヤは小中河川にたくさんいたことをふと思い出しました。


網地名は千曲川沿いに見られる理由がわかりました。諸説あるようですが・・・。


<引用・参考文献>
「歴史の道調査報告書 千曲川」p.79,平成3年3月31日,編集・発行長野県教育委員会
<参考サイト>
川とわたしたち(上田地域こども自然電子図鑑)
http://edu.umic.jp/kawa/segi/r-masuami.html
上田市(千曲川のつけば漁)
https://www.city.ueda.nagano.jp/soshiki/nosei/2544.html

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