土地評価のブログ

不動産鑑定士の日々

煙火師

長野市(2016.4.20)から

[平賀源内1]で紹介した白土の小市(こいち)地区を含む安茂里(あもり)地域は古くから花火とのかかわりをもっていました。


実際、それを裏付けるいくつかの事象や資料も残されています。
たとえば安茂里(差出北)出身で1889(明治22)年生まれの青木儀作氏(日本煙火芸術協会初代会長)は、1959年に花火業界初の黄綬褒章を受章しています。


また、文献(安茂里史)に下記記述があります。
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花火の起源はノロシだといわれているが、久保寺観音の裏山に煙平(けむだいら)という地名が残されており、現在これがノロシ台関連の地名だと考えられている。また文化六年(一八〇九)に書かれた「花火の法」や明治元年(一八六八)の「森花火」という秘伝書がまた、文政一四年(一八四三)に犀川神社氏子から松代藩へ出された奉納花火の願書などが、旧久保寺には今も保存されている。(略)
江戸時代の中期以後には、安茂里の各神社で祭礼花火や盆花火が数多く奉納され、それらの花火をこの地の人々がつくっていたことは確かである。(略)
明治時代にはいってからは、「火薬取締規則」などが制定されてようやく花火の専業化がはじまった。それとともに奉納花火から各種イベントへの参加と花火の使途が拡大されて、花火の製造・打ち揚げが仕事として成り立つようになってきた。安茂里村でも古くから花火に親しんできた風土の中から、花火を業とする煙火師が何人か出現した。
藤原善九郎(平柴)は地元煙火の草分け的な存在で、若いときから花火の製造と改良に努めた。(略)外国よりチリ硝石などの新しい薬品をとりよせるなどして、打ち揚げ花火に色を付けることに成功した。明治四三年(一九一〇)三月、名古屋市で開催された第十回関西府県連合共進会に、当時未開発であった二尺玉を出品し、花火先進県の愛知県をびっくりさせたことは有名な話である。
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昔、花火師のことを煙火(はなび)師と言ったようです。実際、サイトでみると花火店ではなく煙火店としている事業所が多くみられます。


そういえば毎年11月の寒い時期に長野市で「長野えびす講煙火大会」が開催されます。花火ではなく煙火としているところに歴史が感じられ、こだわりがあっていいですね。
<引用・参考文献>
安茂里史編纂委員会「安茂里史」p.261,平成7年
<参考サイト>
長野えびす講煙火大会 https://www.nagano-cci.or.jp/ebisukou/
一般社団法人 日本煙火芸術協会 http://geikyo.jp/index.html
ながの観光(全国に名を馳せる長野市二大煙火師が語る 「長野えびす講煙火大会」にかける思いと見どころ)
https://www.nagano-cvb.or.jp/modules/feature/00018

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