土地評価のブログ

不動産鑑定士の日々

栃の実

中野市から

今から約15年半前に名古屋で研修があったので、徳川美術館に立ち寄りました。徳川美術館は江戸時代にあった尾張藩徳川家関連(徳川御三家)のものを展示してあるところです。


というのは昔、下記文献を読んで徳川義直に興味を持ったからです。古い話ですいません。


文献(長野郷土史研究会機関誌)に初代藩主徳川義直の記述があります。
「『信濃史料』寛永(1641)に「山村良豊、徳川義直より栃の実進上を命じらるるにより、その料理の仕方覚を義直の用人松井三郎左衛門に進む」という綱文があげられ、松井への以下の手紙が採録されている。・・省略・・今日でも、たとえば木曽の鳥居峠を歩くと大きなトチの木がいくつも目につく。それは、もと木曽住民の食生活に貢献したものであり、とくにしばしばこの地に惨害を及ぼした飢謹のときには、たいへん大きな役割をもったものにちがいない。・・省略・・徳川義直は、有能な領主だったかにみえる。かれは凶年山村の食について関心をよせトチノミなるものを耳にして、みずからこれを試食しようとしたのであろう。」


トチノミはアクが強すぎてアク抜きや料理方法をしらなければ殿様がとても食べられるものではなかったはずです。下記サイトに栃の実のあく抜き方法が紹介されていますが、天日乾燥に1ヶ月、さらに、あく抜き作業に1ヶ月が必要だそうです。


現在、長野県や新潟県では栃餅(トチノミ加工デンプン)が道の駅ショップなどに売られていて、私も何回かアクを感じず食べました。


さらに驚いたのは下記の記述。
「徳川義直がトチノミを試食して、こんなうまいものが沢山あるならもっと年貢を取れといったとは考えられないが(略)、トチノミなる食品の存在を知ることは、取り立てをきびしくしても百姓は食っていけるという判断を支える材料に成り得るし、たとえば救恤(きゅうじゅつ)願いに対して、それを値切る姿勢の支えにもなるのである。・・省略・・住民にとって、君主が名君であることは、必ずしもその幸福につながるものでない。飢えた民が、配給・供出の統制ルート外に、智慧(知恵)をしぼって食料を求めたとき、その食料に統制の網をかぶせるという政治を、私たちの年代も経験したことがあるのである。」


当時(2007年)、単に藩主がトチノミを食べて名君だったでは終わらせない、その意図の裏に隠されている目的を明確にした寄稿文に感動しました。


なお、引用にあたって一部括弧書きを追加させていただきました。
今回は、ホームページ(閉鎖)のブログ(2007年7月2日)に「飢饉災害1」の題名で記載していたのをリメイクしました。


<引用・参考文献>
塚本学執筆・長野郷土史研究会機関誌「長野第87号」昭和54年9月1日刊(復刻版)
<参考サイト>
山菜屋.com
https://www.sansaiya.com/

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