土地評価のブログ

不動産鑑定士の日々

鮭川

小川村より

大昔、長野県北部を流れる千曲川ではサケがたくさんとれたようです。


文献によると


「原始時代や奈良・平安時代、信濃国は日本で有数のサケ漁業地であった。飯山市秋津の山ノ神遺跡から、サケのレリーフが描かれた土器が出土している。その遺跡は千曲川に近く、縄文晩期の2500年前、このあたりでサケがかなり重要な生産物であったことを示している。(略)


平安時代の前期、「10世紀の初めに朝廷が編纂した『延喜式』は、律令時代の細かい法律の実施細則をまとめたものである。この中には、諸国から納めた租税の内容が記されている。
信濃国はサケの貢納がみられる。17歳以上、20歳以下の男子が納める「中男作物」(ちゅうなんさくもつ)として、鮭楚割(さけすわやり)、氷頭(ひず)、背腸(せわた)、鮭子(すじこ・筋子)があった。(略)
鮭楚割とは、サケの内臓を取り除いて干したもので、江戸時代の干鮭(からざけ)に当たるものである。氷頭はサケの頭を干したもので、氷のように澄みとおってくることから名つけられたもので酢漬にして食べられた。(略)


戦国時代信州を征服した武田信玄は、サケのとれる川を「鮭川」と呼んだ。鮭川からとれたサケ10本に対し4本の貢納を命じている。このような貢納は江戸時代も続けられ、松代藩はとれたサケの4割を貢租として納めさせている。江戸時代から明治時代までかなりのサケがとれていたことは、各地の漁場で大漁を祝う「千本祝い」が、しばしば営まれていることをみてもうなずける。」


今考えると10本の内、4本が税金として取られていたわけですから、40%の税率は高いような気がします。武田信玄はサケも欲しかったのかもしれません。


<引用文献>
市川健夫「信州学大全」pp.682-684,2004年,信濃毎日新聞社

×

非ログインユーザーとして返信する