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不動産鑑定士の日々

鬼無里伝説1

長野市鬼無里(きなさ)の加茂(かも)神社から。杉が長野市の天然記念物に指定されています。


この辺、鬼無里には京の都を模した地名が多く見られます。
例えば、清水、加茂、春日、吉田、二条、三条、四条、五条などなど。


下記文献(鬼無里村誌)でも
「東京」(ひがしきょう)集落に加茂神社、「西京」(にしぎょう)集落に春日神社を配して、近辺に「館武士(やかぶし)」、「府成(ふなる)」などの地名も残していて、都の名残(なごり)を今に語っている。


とあります。


どうして京都の地名が?
現在、下記2つの説があります。
1 1200年前、新たな都候補として役人が調査にきて加茂神社に館を置いた
2 1000年前、京都の貴族一行(紅葉さま)が移り住んだ


なお、鬼無里村誌によると鬼女伝説は明治36年以降の作り話とされています。


1の根拠として
下記サイトによると
信濃国への遷都の計画自体は『日本書紀』などに基づく「史実」である。天皇の後継者争いによって発生した壬申の乱では、戦争の序盤で不利だった大海人皇子が信濃の兵の助力を得て逆転勝利を果たし、天武天皇として即位した。即位後、天武天皇は信濃への遷都を計画し、三野王を派遣して候補地の選定や測量を行わせた。伝承では、それが鬼無里だった、とされている。


また、鬼無里村誌に
東京の加茂神社境内に、勅使(ちょくし)派遣の「勅在所」の地をいわれる古蹟があり、自然石に「三」の文字、つまり勅使の「三野王(みぬのおう)」の「三」を刻んだものとされる長方形の石が残されている。さらに裾花川向いの根上りの地籍には、同行した一行の一人だった、皇族某のものだという古墳(円墳)があって「月夜の陵(はか)」といわれている。


とあります。


2の根拠として
都から来た貴族のために地元の人が館を造りましたが、そこの地名が「内裏屋敷」として今も残っているそうです。


加茂神社辺りの標高は793mで京都から400kmくらいありますから、現地調査はたいへんだったことと思います。
新しい都候補?ですから、今とは感覚が違うのかもしれません。


<引用・参考文献>
鬼無里村誌編纂委員会「鬼無里村誌」p.443-444,平成16年
<参考サイト>
加茂神社
http://jinja.sakura.ne.jp/20_nagano/je_20_kinasa-kamo_2009.htm

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