土地評価のブログ

不動産鑑定士の日々

文人の足跡

高山村(2016)から。

長野県高山村の山田温泉にある旅館(藤井荘)で将棋名人戦第5局(2023.5.31~6.1)が行われました。藤井聡太竜王が名人位を獲得したことは全国的なニュースになりました。


山田温泉付近は山間部の松川渓谷沿いにあり、急傾斜地型の土砂災害警戒区域に指定されています。


過去、山田温泉には数多くの文人たちが訪れています。
森鴎外、与謝野晶子・寛、菊池寛、堀口大学、有島生馬(画家・有島武郎の弟)、佐藤春夫(詩人・作家)、太田水穂など。


森鴎外(29歳)は、藤井荘に明治23年8月18日より25日まで逗留して「みちの記」という紀行文を残しています。「みちの記」には、「温泉をめぐりて立てる家数30戸ばかり。宿屋は7戸のみ」「食は野菜のみ、魚とてはこの辺の渓川にて捕らるるいわなというもののほか、なにもなし」「男女混浴の湯治場」「荼毘(だび)所の跡」などの情景を描写しています。


文献(高井第129号)によると長野駅から人力車で須坂まで出て、昼食を取り、牛の背に乗せてもらい山田温泉までたどり着きました。8月25日に法科大学の学生が訪ねてきて翌日に米子の滝をみにいく約束をしますが、たまたま目にした新聞(信濃新報)に大水害の記事が掲載されていて急きょ帰ることに。


帰りは小布施を経由して千曲川(大雨で船橋なし)を小舟で渡り豊野駅で汽車に乗り、横川(群馬県)で汽車が不通のため降り、山越えして松井田にたどり着きます。そこから汽車で高崎駅へ、乗り換えて新町(群馬県)へと出て、新町からは人力車で本庄駅まで行く。そこから汽車でやっと上野駅へたどり着きました。(同文献)


当時は人力車が活躍していたようですが、坂の多い山田温泉(長野駅から約25km)まで来るのはたいへんなことだったと思います。


鴎外は山田温泉をかなり気に入ったようで、宿屋(藤井荘)の主人に土地分譲の依頼を頼む書状(9月21日)を送っています。(高山村誌)
なぜ、鴎外が当時、全く無名な山田温泉へきたのでしょうか。当時の感覚とすれば上田市の別所温泉など全国に知られた温泉地があったはず。


このことについて文献(高井第129号)によると下記のように推測しています。
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「文学散歩」で名高い野田宇太郎は『信濃路文学散歩』の中で、このことに触れ、「わたくしの憶測に過ぎないが」と断りながらも、鴎外の生涯の親友賀古鶴所(かこつるど)か落合直文などの誰かに教えられたか、陸軍の測量地図でみつけたのではないかと推測している。
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今回は昔、ホームページのブログで紹介してたのを焼き直しました。
<参考サイト>
藤井荘
https://www.fujiiso.co.jp/
<引用文献>
高井地方史研究会会誌,小林謙三「高井第129号」(森鴎外の「みちの記」とその周辺)
高山村誌第二巻(歴史編)693p,694p
高山公民館編「自然と人のふれあう村」167p
森鴎外「みちの記(き)」

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