田毎の月
有名な姨捨(おばすて)の棚田(千曲市八幡)のようす。田植えの準備が進んでいるようです。
この斜面一帯は地すべり防止区域に指定されています。棚田は、地形からいって地すべり防止区域・地すべり危険箇所に指定されることが多いと思います。絶景=棚田=地すべりは、どこの地域にも共通した現象でしょうか。
姨捨を詠んだ歌人は多く、江戸時代、芭蕉、一茶など姨捨を訪れる来訪者が急増して姨捨、善光寺参詣コースがパターン化されました。今も全国俳句大会が開かれ、更科日記ツアーが組まれるほど人気コースとなっています。
あやしくも慰めがたき心かな 姨捨山の月も見なくに(小野小町)
月かげはあかず見るとも更科の 山のふもとに長居すな君(紀貫之)
上の二首の有名な作者は姨捨を訪れていません。
あひにあひぬをばすて山に秋の月(宗祇)
宗祇は室町時代の連歌を代表する人で、和歌の西行、俳句の松尾芭蕉とともに漂泊(ひょうはく)の人として知られています。
おもかげや 姨(姥)ひとりなく 月の友 (1688年・松尾芭蕉)
元旦に田毎の日こそ恋しけれ(1689年・松尾芭蕉)
前からどうして”田毎の月”というのか不思議に思ってました。
文献(探訪・信州古寺)に「田植えが終わったばかりの頃、棚田のひとつひとつに月がうつり、夜になればほんとうに田毎の月となる。月に関しては近江の石山寺の月か、田毎の月かといわれるほどである。秋の月もよいが、四季折々、長楽寺からの光景も風情がある。」を読んですっきり。
芭蕉が元旦に田毎の月を恋い焦がれた気持ちが理解できました。
小林一茶は3回姨捨に来ていて下記の句を残しています。芭蕉を尊敬していた一茶らしく。
姨捨のくらき中より清水かな(1799年)
けふといふ今日夕月の御側哉(おそばかな・1809年)
十五夜のよい御しめりよよい月夜(1823年)
川留やむかふは月の古る名所(1823年)
最後の句は、千曲川の洪水のため対岸で姨捨をうたったそうです。(更埴市史)
私は、下記の句が印象に残りました。
名に高き姨捨山も見しかども 今夜ばかりの月はなかりき(藤原隆信)
作者は姨捨を訪れていませんが、詠んだ時、曇りか雨だったのでしょう。
<引用文献>
「更埴市史第一巻」442p,443p、「更埴市史第二巻」722p,723p,更埴市史編纂委員会,更埴市
「探訪・信州の古寺第1巻・天台宗・真言宗」(長楽寺)157p丸田修治執筆部分,郷土出版社