土地評価のブログ

不動産鑑定士の日々

棚田の水路

白馬村(2012.11)から。

前に棚田の風景を写していて傾斜地にある田の水路に興味を持ったことがあります。
通常、田の脇に水路が流れていて、棚田はそこから引込み、排水もする方法(用水兼排水)がとられます。中には田からあふれた水を下段の田へ流れ込むようなものも見られます。


文献(豊科町誌)に大昔の田について説明がありました。
----------
大町市借馬では古墳時代から平安時代にかけての大集落跡が発見されている。また、白馬村の神城の東佐野から三日市場・堀ノ内にかけて古墳が二六基所在している。(略)
特に神城の三日市場付近には山麓台地上に土師器(はじき)や須恵器(すえき)が出土しており、集落地であったことが知られる。前面の水田地帯は膝までつかるフケ(深)田で、一枚一枚の田は小さく一畝歩(100平方メートル)内外の小規模水田である。用水はほとんどかける必要がなく、上の田から下の田へかけ落とし式になっている。こうしたフケ田は古代の水田を承継したものであることはいうまでもない。
----------
大昔の田に必要な水はかけ落とし式だったようです。考えてみれば用水路を造る技術がなかったのでしょう。また、小規模だったことは、違う文献(ふるさとの誇り綿内誌)にも同様の記述(注)があります。


棚田同様、機械の入らない田の稲刈りは大変だったことと思います。


(注)古墳時代の水田面はニメートル四方の小区画水田であった。また弥生後期の水田には木材を多用した灌漑用の水路が設けられていた。弥生中期の水田は自然流路に沿う低く狭い範囲に三〇~八〇センチの畦を地形の傾斜に合わせて直交、平行させ、傾斜方向に水口を設け、一つの区画の面積は三〇平方メートル前後で、現在の水田面積の三〇分の一ほどであった。
<引用・参考文献>
豊科町誌編纂委員会編「豊科町誌」p.78,平成7年
長野市制100周年綿内地区記念事業実行委員会編「ふるさとの誇り 綿内誌」p.42,平成17年

×

非ログインユーザーとして返信する