土地評価のブログ

不動産鑑定士の日々

湯福川

飯山市菜の花公園から

先日、長野市市街地の町名の由来に関する郷土史を読んでいたら「岩石町(がんせきちょう)」についての記述がありました。昔、おそらく大きな岩があったのだろうと思っていました。


文献(長野復刻昭和47年度)によると下記記述があり、納得しました。
「岩石町=岩石、河原崎の名はいづれも湯福川の河原に当りこの様な名が起った。」


湯福川(ゆぶくがわ)は細い川で湯福神社の前を通り、善光寺北西側から城山小学校脇にかけて道路下を流れ、再び顔を出して伊勢町、岩石町等を流れています。


湯福川は明治44(1911)年8月、昭和12(1937)年7月にはん濫を起こしています。
文献(長野第87号)によると明治44年の時、東之門町は激流となり、一部は武井坂を急下し、岩石町に向いました。当時、工場が浸水しましたが、浸水深は1.2m強に達し、数百貫の大石が湯福神社の大鳥居に突進したため鳥居は二つに裂けたそうです。100貫=375kgですから巨大な岩だったのかもしれません。


同文献及び信濃毎日新聞の記事(1937年7月30日)によると昭和12年の時、湯福川がはん濫し、床上浸水153戸、床下浸水790戸、湯福神社社殿半壊、付近の民家5戸流出の被害がありました。


このため防災対策として湯福川を分水するシシ沢工事が昭和29年から始まり、同38年に完成しました(下記サイト参照)。


今、岩石町が湯福川の河原だったとは信じられない雰囲気があります。
<引用・参考文献>
依田康資「長野市の住居表示について」長野市郷土史研究会機関誌「長野復刻昭和47年度」p.70,昭和47年復刻
依田康資「湯福川氾濫について」長野市郷土史研究会機関誌「長野」第87号,pp.56-60・飢饉災害特集号,昭和54年9月発行,平成14年9月改訂再版
<参考サイト>
第一地区住民自治協議会(湯福川大氾濫)
https://www.city.nagano.nagano.jp/documents/2287/742627_1.pdf

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