土地評価のブログ

不動産鑑定士内藤武美の日々

矢代(屋代)宿2

たけちゃん2

長野市から。落合橋きれいですね。

矢代宿(千曲市)の本陣をつとめていたのは柿崎家や松崎家です。

上記上越の柿崎家と聞くと「あれ」と思われる方がいるのでないでしょうか。

「柿崎景家」猛将、かつ、上杉謙信の初期の家来としてマニアの間?ならご存じですが、あの景家と関係がありました。最近まで知らないでいました。


確か「御館の乱」で上杉景勝ではなく、上杉景虎(北条家)に味方して消滅したとばかり思っていました。

ところが前に「長野郷土史研究会会長」の小林一郎先生が書かれた長野信用金庫(長野しんきん・北信地区経済動向)の機関誌「すかい」(55)屋代宿本宿に記載があったので驚きました。

私はたまに回転寿司を食べるために高速道路で新潟県上越市へ行きます。新潟県の回転寿司は長野県とは全くといっていいほど違います。個人的感想ですが・・・。


息子が新潟の大学に通っていた時は、よく米山サービスエリアに寄りました。位置的に関係ないかもしれませんが、「この米山を柿崎景家がおさめていたんだ」と一人つぶやいていました。


更埴市誌によると

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東海道や中山道には、本陣・脇本陣が数軒置かれているが、矢代宿には本陣・脇本陣が各一軒ずつ置かれていた。本陣は柿崎源左衛門家、脇本陣は柿崎善兵衛(市之丞・平九郎)家である。本陣を勤めた柿崎源左衛門家については江戸時代の終わりころ著わされた『屋代記』によると屋代左衛門が矢代より立ち退いていくとき、懇情を受けた越後米山城主柿崎景家の次男弥次郎が、故あって関屋村(長野市松代町)明徳寺にいたのを呼びよせ居館ならびに耕地を譲り渡した。弥次郎は景晴と称し、矢代宿と矢代村の問屋・本陣・肝煎役を勤めた。(略)

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有料版のGemini AIに確認したところ、以下のような経緯が分かりました。

1. 柿崎景家の没年と御館の乱

柿崎景家(かきざき かげいえ)は、御館の乱が勃発した天正6年(1578年)より前、天正2年(1574年)頃にすでに亡くなっています。そのため、残念ながら景家自身は御館の乱には参戦していません。しかし彼の死後、残された柿崎家は結果として上杉景虎方に味方することになりました。


2. 柿崎晴家(景家の子)の動向:景虎擁立の首謀者へ

景家の跡を継いでいた息子の柿崎晴家(はるいえ)は、上杉謙信が急死した際、いち早く上杉景虎を後継者に推した中心人物の一人でした。

しかし、乱の本当に初期の段階(あるいは勃発直前)に、ライバルである上杉景勝の側近・直江兼続らによって暗殺(または誅殺)されてしまったと伝えられています。景勝側からすれば、景虎派の頭脳であり有力な足がかりでもある柿崎家を潰すための先制攻撃でした。


3. 柿崎家の結末:景虎方として徹底抗戦

当主の晴家を殺された柿崎一族と家臣たちは、激怒してそのまま景虎方に合流します。

本拠地である柿崎城(上越市)などに籠もり、景勝の軍勢と激しい戦いを繰り繰り広げました。しかし、次第に景虎方が劣勢になると柿崎城も猛攻を受けて落城。晴家の子(景家の孫)にあたる若き当主・柿崎憲家も戦死(または自害)したとされ、謙信を支えた名門・柿崎家はここで一度、事実上の滅亡を迎えることになってしまいました。


名門の柿崎家が御館の乱で一度没落したあと、その血脈や名跡がどのようにして信濃国(長野県)の矢代宿の本陣へとつながっていったのか、歴史のロマンを感じました。

<引用・参考文献>

「更埴市史 第二巻近世編」P.210-211,昭和63年

下の写真は長野市豊野町(2026.5.12撮影)です。りんごの花が咲き乱れます。

<参考サイト>

柿崎景家(かきざき かげいえ) 拙者の履歴書 Vol.212~呉越同舟、主君への忠誠~|デジタル城下町

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