土地評価のブログ

不動産鑑定士内藤武美の日々

輌良根古神社(からねこじんじゃ)

たけちゃん2

篠ノ井塩崎にある輌良根古神社の境内。

「輌良根古神社」という、変わった名称の神社があります。明治11年に明治天皇が御巡行の際、この社前を通られたことで知られているほか、祭日には「鼠除け(ねずみよけ)守護の神」として崇敬され、かつては群馬県、埼玉県や東京周辺からも多くの参拝者が訪れたそうです(『長野市誌』)。

お蚕(かいこ)さんにとってネズミは大敵ですから、昔の人はネズミ除けとしてお参りしたのですね。今では信じられないような話ですが……。そのためでしょうか、近くにある水防倉庫の名前も「唐猫」となっています。


敷地内には、樹齢数百年と思われるケヤキの木が数本、鎮座しています。ケヤキは落葉が多いのですがほとんどないことから、地元の人が掃除しているのでしょう。

これを見て、昔、ケヤキの木の評価が低すぎると指摘された案件を思い出しました。

それは、市街地の敷地内にあった2本のケヤキの大木でした。所有者の方の主張は、「ケヤキの大木は高く取引されるはずなのに、その価値が評価に反映されていない」というものでした。


実は、評価にあたって、長年製材業を経営し、山師を自負する父に相談していました。

父は、「狭い道路(3m前後)にL字型に接する敷地の大木は、切り倒しても運搬できない。トラックが横付けできないからだ。それよりも、このケヤキは模様が酷く悪いな……」と言っていました。


ここでいう「模様が悪い」とは、節が多いことや、木の生長が悪いことを意味しているようでした。節が多いと、乾燥させたときに割れるといったリスクがあります。

一般に、業者は生木を数年間乾燥させます。父の倉庫の奥にも、長年寝かせた木がありました。将棋盤でさえ、10年〜50年という長い期間乾燥させるという話を、テレビで聞いたことがあります。


結局:模様が悪い = 価値が極めて低い


上記のように説明したところ、所有者の方もあらかじめケヤキ取引業者の見積もりを取っていたようで、納得されました。


さて、傳田重義先生の『歴史の道 北国街道を歩く』(---間)によると、次のようにあります。

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「渡し場跡をみると、千曲川はここで大きく湾曲している。北東方向に流れていたのが、ここでL字型に南東に向う。突き当るところに小さな亀の甲島がある。小石を積んだもので、昔の人が水勢を柔げるために築いた人工の島である。」

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ここは、大水の際に河川の流れが堤防付近に向かって激しくぶつかるため、「重要水防箇所(重要度A)」に該当します。近くに唐猫水防倉庫も見られ、河川の越水(えっすい)等の恐れがある、水防上極めて重要な区間であることがわかります。

実際、令和元年10月の東日本台風(大水害)の際、この近くで千曲川が数百メートルにわたり越水しました。

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「明治五年には十二艘の舟を連ねて船橋ができ、明治四三年には県営の木橋が架けられ、昭和二年に国道の篠の井橋が現在のところに移り永久橋になった。輌良根古神社渡し場から土手を上ったところに輌良根古神社がある。参道入口に『明治天皇御召換之所』という石碑がある。天皇は東京を出発するときは鉄輪の馬車だったという。(略)しかし、この渡しは当時舟橋であったから、板の輿に乗り換え、ここでまた馬車に乗り換えたのである。水害の経験からか、本殿も、唐獅子も境内にあるものはすべて高い石の台の上に乗っている。

輌良根古という名前の由来は、延暦一八年(七九九)この地にあった高麗の帰化人前部秋足に篠井姓を賜わったことが記録にある。輌良根古は唐猫で、猫は彌子とも書き、平安以前の貴人の尊称である。篠井氏を氏神として祀ったものとみられる。」

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AIによると、聖徳太子(厩戸皇子)の弟2人が将軍として軍を率い、海外遠征(602年・603年の新羅征討)に赴いた史実があります。前部秋足という人は、その時代(あるいはその少し後)の流れを汲む人なのかもしれません。


そういえば修行時代、新宿の事務所にある方がよく出入りしていました。その方の祖先は百済(くだら)の王様の子孫で、百済が滅亡した際に日本へ亡命されたのだそうです。最初はすぐには信じられなかったのですが、ソウルオリンピックで百済ゆかりの聖火ランナーに選ばれていたことや、百済の王の遺品をお持ちなのを知って大変驚きました。


この神社を眺めていたら、当時の百済という国に不思議な親しみを感じたことを思い出しました。

<引用・参考文献>

傳田重義『歴史の道 北国街道を歩く』pp.205-206、平成12年

『長野市誌』第9巻, p.64

<引用・参考サイト(AIによる「前部秋足」の解説)>

「前部秋足」は、主に「まえべのあきたる」(または「ぜんぶ あきたる」)と読み、飛鳥時代から奈良時代にかけて信濃国(現在の長野県)に定住した、高句麗(こうくり)系の渡来人(あるいはその子孫)の名前です。


1. どんな人物?

6世紀末から7世紀初頭にかけて、中国の隋や唐が朝鮮半島の高句麗へ遠征(戦争)を行った際、混乱を逃れて日本(倭国)へ渡ってきた人たちが大勢いました。

「前部秋足」や、同じく一族とみられる「前部黒麻呂(まえべのくろまろ)」といった人物たちは、当時「科野(しなの)」と呼ばれていた善光寺平(長野盆地)周辺に入植し、地域の開拓や文化・技術の発展に貢献したとされています。

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