土地評価のブログ

不動産鑑定士の日々

20間道路

石川県白山市の「ふくべ大滝」(2014.9)から。

この滝の上にもうひとつ滝があるため、ふくべ(瓢箪(ひょうたん)の意味)と名づけられたそうです。

昔、現地調査で軽井沢町へ行った時、軽井沢駅南西方に幅員の広い道路(幅36m)に驚いた記憶があります。プリンス通りというので皇室関連の道路と勝手に推測してました。プリンスホテルがあるのでプリンス通りの名称ということを後に知りました。


前に文献(避暑地 軽井沢)に下記記載(引用)があり、36mという中途半端な幅員の意味が理解できました。

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大正九年、箱根土地株式会社(現国土計画株式会社)は、地蔵ヶ原一帯の発地の共有地約421ヘクタールを買収した。ところが馬越に通じる道は狭く曲がりくねっており、車が通れるような道がなかった。堤は大正13年に新軽井沢から南軽井沢に向けて、幅20間(約36メートル)長さ10町(約2180メートル)の道路建設に取りかかった。この道路は南の押立山の麓まで、翌14年夏にほぼ完成し、道路の両側には別荘を建築して売り出した。

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また、セスナ機の事故があって昭和23(1948)年、「20間道路」の両側を遮断して臨時的に飛行場にされたこともあったようです。(町誌)


大正時代にこのような広い道路を建設する発想に感心しました。


前に名古屋市市街地へ行った時、市内の道路がどれも広いので飛行機の滑走路にもできそうなことを地元の人から聞きました。


その後、この道路の西側に飛行場(現72ゴルフ場西コース)が、東側に競馬場ができました。東京(国立飛行場)-南軽井沢間(飛行場)を50分で行けたそうですが、当時の飛行機はセスナ機でしたから相当揺れたでしょう。ちなみに今、新幹線で軽井沢駅から東京駅間が60分強(はくたか)かかります。


終戦前、日本政府は長野市松代町に大本営を、軽井沢町に大宮御所の移転を秘密裏(町誌)に進めてましたから広い道路は便利だったのかもしれません。


終戦後(1945年9月以降)、アメリカ軍が日本に進駐してきました。長野県では山ノ内町にある上林ホテル(上林温泉)、志賀高原ホテル、軽井沢町千ケ滝のグリーンホテルと音楽堂、旧軽井沢の万平ホテル、三笠ホテルなどが接収されました。


アメリカ軍は接収期間(1945年~日米講和条約1951年まで)、軽井沢での生活をアメリカナイズしながら徹底したリゾートを楽しみました。


軽井沢町へ行くと欧米化の雰囲気が味わえるのは過去の歴史が背景にあるのかもしれません。

<引用・参考文献>

軽井沢町誌 歴史編(近現代),p.390-396,昭和63年

小林收「避暑地 軽井沢」pp.108-111,平成11年

<参考サイト>

ほっと石川旅ねっと

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