土地評価のブログ

不動産鑑定士の日々

囲み堤1

12年前の古い写真ですが、白馬村(松川橋付近)から。

携帯をトイレに水没させてから”携帯のない世界”に2週間浸っています。先日、知人にその話をしたら”うらやましい”と言われました。

須坂市村山に昔から地元の人が大切にしている地蔵尊があります。

先日、須坂市誌(第二巻・地誌民俗編p.179)を読んでいたら「囲(かこ)み堤(づつみ)」の下記記述(引用)があり勉強になりました。

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嘉永四年囲み堤と駕籠訴

水害から村を守るには、まず築堤が必須である。築堤は川の流れや下流の村々への影響を考慮しておこなわねばならないものであって、種々の制約がある。とくに居囲堤によって村を完全に囲むことは御法度であったという。村山村の場合は、正徳四年(一七一四)の絵図をみてもすでに堤防によって完全に囲まれている。村山村の東堤は延宝八年(一六八〇)に築堤されているが、西の千曲川に対する防備が不備であったため、西堤を築くことを嘆願しておおむね聞き届けられ、松代から普請奉行が検分のため来村した。つぶさに実情を聴取し、現地を検分して窮状を諒とし、思案の末、村方の願望を容れて、囲堤築堤のすべてを村方に任せて帰った。帰路奉行が駕籠中で自刃し違法の責を一身に負って果てたという。村人は大いに驚き感激して、堤防上に地蔵尊を祀り、その恩義に報いたと伝えられている。ことの真偽は定かでないが、(略)

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江戸時代(1851(嘉永4)年)、地域によって集落を堤防で囲むのは制約があったようです。上記村は東側に旧百々川(きゅうどどがわ)と千曲川(西側)に挟まれた地域にありました。

現在、西側の細長い堤防の字名は「土手外」になっていて当時の雰囲気が感じられます。


事件後、堤防を造っている時、高さ制限違反のため藩から中止命令がでましたが、村人達は3回駕籠直訴をして許可されたそうです。


下記サイト(国土交通省)によると埼玉県の熊谷市(旧大里町)、吉見町、川島町などの荒川沿いに「大囲堤(おおいづつみ)」がありました。地域によって堤防の築造許可がおりることもあったようです。なお、大囲堤は、水害に備えて集落を輪のように囲む堤のことです。

<参考サイト>

須坂のまるごと博物館:地蔵尊(村山町)

https://suzaka-marugotomuseum.jp/search/item/?id=5980

国土交通省 関東地方整備局 荒川調節池工事事務所:荒川の大囲堤(おおいづつみ)

https://www.ktr.mlit.go.jp/araike/pdf/sonota/100neta/100neta_012.pdf

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